私が26の時に他界した母の記憶の中で
一番強烈な思い出は、
私に注意したことがない。
私に怒ったことがない。
私に命令したことがない。
例えば、
「勉強しなさい」
「早く寝なさい」
「10時までに帰りなさい」
なんて言われたことが全くないのだ。
だからか、5歳の頃から放浪僻があった。
久里浜の幼稚園に行くと言って家を出て、
浦賀や横須賀中央で遊んでいた。それでも、
家に帰って怒られることはなかった。
高校生の頃にアメリカで一旗揚げようと
家出をした。ほぼ1年間外人の家で働いた。
その時も、何も怒られなかった。だから、
家に戻って何もなかったかのように通学を
再開した。そうして、かろうじて、
高校卒業の資格を得、大学にも行った。
大学生のときも、好き勝手なことを
しながら住まいを転々と変えた。
うっかり女性に迷惑をかけたときも、
母が黙って尻拭いをしてくれた。
最後まで私を信じていてくれた母を思うと、
今でも涙が止まらなくなる。あんなに
多くの迷惑をかけたのに、どうして何も
言わないでいられたのだろうか。
要するに、母は自分の遺伝子を持った
子供なら、絶対に最後には人生を
まとめ上げるだろうと信じていたのだろう。
つまり、子育てとは、自分の遺伝子を
信じるか信じないかの問題なのではない
だろうか。
だから、遺伝子を決める結婚ってとても
大切なものだと思う。自分の遺伝子がどう
繋がっていくかの大問題なのだ。だから、
孫には、結婚の時だけは、注意深く
行動して欲しいと思っている。それが
祖父からの唯一の遺言である。