怨念殺人から学んだこと

「三み三り」は身を亡ぼすと書いてきた。
しかし、恨みを晴らすことで
身を滅ぼしてもいいくらい深い恨みがある
ことを知った今、軽率に「人を恨んでは
いけない」と説いてきた己の軽さに心が
苦しくてならない。

殺人事件が起こると、百パーセント
殺された人が被害者で殺した人が加害者
である。当たり前の構図だが、本当に
そうなのだろうか。

2016年2月23日の札幌地裁の法廷、祖母を
殺した犯人は孫だった。傍聴席に陣取った
この事件報道をしてきた記者たちは、
犯人の表情や言動に一瞬たじろいだ。

そして、自分たちの書いてきた
「恩知らずの孫」という記事が大間違い
だらけだったという反省の念に苛まされた。
よく調べもしないで記事を書いた
自分たちを恥じた。

絶対君主として孫を虐待し続けてきた
祖母の悪行が白日の下にさらけ出され、
母や長女の口から三女をかばう言葉が
怒涛の如くあふれ出てきた。長女は
三女の手助けをした殺人ほう助罪にも
問われたが、長女は胸を張って答えた。
「私も祖母には殺意を抱いていました」と。
「可哀そうで見ていられなかった」とも
付け加えた。

思えば、私にもそれに似た経験があった。
忘れようと思っても忘れられない怨念に
苦しんだ時期があったのだ。今でこそ、
安穏な生活をしているが、その当時は
来る日も来る日も消え去らない怨念で
苦しんだ。

この世で正当化される殺人は「正当防衛」
だけだが、この三女の場合にも、
「正当防衛」としての判決を出して
欲しかった。残念ながら、
それはならなかったが・・・・・

苦しさ、辛さ、貧しさを経験しない者が、
偉そうに説教を垂れるのだけは止めた方が
いいと深く反省している。事情も知らないで、
「人を恨んではいけない」などと軽々しく
言うものではない。好きで人を憎んでいる
のではなく、憎まざるを得ない人もいるの
だから。「寄り添う」とはそこまでも
分かってあげることなのだ。

受験の辛さ、不合格のときの苦しみ、
出世街道からの脱落、事業の失敗、失恋、
などなどの辛い体験のない人は、今一度
人への思いやりについて考えなおした方
がいい。そして、今、辛い思いをしている
人は、その苦しみは決して無駄にならない
と信じて頑張って欲しい。「辛い経験」は
必ず人を大きくするものだと信じて生き
て欲しい。

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