宗教用語は長い歴史の中で徐々にその数を増やしてきた。
仏教用語もその例外ではないはずだ。
その中で日本人の多くがどうしても使わざるを得ない言葉がある。
初七日、四十九日、33回忌などはその中の代表的なものだろう。
しかし、ほとんどの人はその意味などは知らないで使っている。
法事のときなどにお坊さんや知ったかぶりの物知りが
そんな言葉の意味を説明したりして、年と共にその種の知識も増えていくが
知っているから運がよくなる訳でもないように思う。
他宗教の人はこんな言葉を全く知らずとも幸せに暮らせるのだから。
厄年だの大殺界などという考え方はヨーロッパにはない。
京都で散っていく醍醐寺の桜を見た。
「桜はパッと散るから余計に美しいのだ」などと思いながら
仏教で言う三途の川って「死に方(散り方)」のことではないかと考えた。
「善人は船で渡る」というが、これはぽっくり亡くなること。
「罪の軽い人は浅瀬を渡る」というが、これは死ぬ前の病が短いこと
「罪の重い人は深瀬を渡る」というが、これは死ぬ前の病が長く辛いこと
とは言え、苦しんで死ぬ善人もいれば、ぽっくり死ぬ悪人もいる。
仏教に詳しい人に聞くと、それにはその人の前世が関係しているとか。
自分がいくら徳を積んでも前世が絡んでは・・・
三途の川の渡り方はその人一代の生き方で決まる方が分かりやすい。
だとすると、善人はぽっくり亡くなるためにどうすればいいか。
私は家族に頼んでいる、「倒れたら、救急車など呼ばないように」と。
不動明王は私を善人と判定するだろうから
きっと家族は私の願いを実行しくれるだろう。
せっかくの死の機会なのに命を救われ
長生きして認知症などになって皆に迷惑をかけたくはない。
還暦後の生き方には、「生」ときっぱりと別れを告げる強さが必要だ。
還暦まで生きれば年数的には十分咲いたと思っているが・・・
とは言え、いざとなったら出来るかな?
桜は散り時が一番美しい。
人も散り際が美しかったら素晴らしい。