私の般若心経 9

不垢不浄
ふくふじょう

学生時代に友人に誘われて出席した新興宗教の集まりでは、
どうすれば幸せになれるのかとかいう色々な説法があった。
ところが、菩提寺の檀家総会ではそんな話は皆無。
勿論、隣人を幸せにするにはどうしたらいいかなんて話もない。

関東大震災で壊れた仏像を直すのにいくらかかるとか
護寺会の会計報告とか、とか、とか・・・
世界平和とか幸福とかいう話が少しはでるのかと思っていたのだが。

キリスト教の教会なら、始める前に牧師の神聖なお話がある。
読経をすればそれでいいのか、その意味の分かる人が何人いるのか?
檀家の総会が浄いかどうかは出席した人の感じ方で、
はっきりとした物差しなどはないから批評するつもりもない。
ただ、これでは新興宗教に走る人が増えるのは致し方ない。
いずれにしても不垢不浄、どちらが浄いかは問題にすまい。

同じ一人の人間が「あの人は汚い」と言われたり
「あんな心の浄(きよ)い人はいない」などと言われたりする。
本当はただの好き嫌いかその人にとっての損得の問題なのに、
いかにも絶対的に正しい判断のつもりで話している人が実に多い。
私も会社を売ったとき、随分と悪く言われたようだ・・・
それにつけても、「不垢不浄」の概念が分かる人が増えて欲しい。

政治家の話などほぼ100%そんな感じで、謙虚さがまるでない。
多くの場面で「汚れているとか浄(きよ)いとか」そのこと自体が難しい。
小泉元総理への評価も割れているが、いい面を隠そうとする論評が目立つ。
要するに、これらもまた「不垢不浄」の精神で対処した方がいいのだが。

不増不減
ふぞうふげん

「夢」と「欲望」の違いは何なのか。
思うに、自己を振り回し不幸を招きがちなのが「欲」
自己を奮い立たせ、元気を与えるのが「夢」か。

「夢」では生ぬるいから「目標」を掲げよ。
そういった若いプロ野球選手がいる。
強い信念で勝ちを意識しないといけないスポーツ選手。
なるほど、「夢」ではなまぬるいのも頷ける。

しかし、50年以上生きて、安定した幸せを考えると
激しい「増減」の世界では疲れて病気になるのが関の山。
何時までも100メートル走のダッシュでは心臓がもたない
「将来実現したいこと」と「今への感謝」を併せ持つ技を身につけたい。

若さは必ず減っていくもの、それを減っていくと感じさせないのが
「今への感謝」で、この感謝の心が「不減」を可能にする。
私は、若さが減っていく還暦過ぎの今に、
なんだか昔より幸せな今を実感している。

また、還暦過ぎに汚職や脱税で逮捕されるような最悪の老後は避けたい。
「不増」を願う必要はないが、「増」ばかりの強欲では老後が思いやられる。
「まあまあ」の気持ちに感謝を加えるのが「不増」の世界なのだと思う。

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