私の般若心経 8

舎利子 是諸法空相
(しゃりし、ぜしょほうくそう)

お彼岸の中日、生まれて始めて、
菩提寺(下の写真)の檀家総会に出席してみた。
普通の老人たちがお上人に合わせて読経をしている、
それもまるでお上人のように経本も見ずに。
これには本当に驚いた。

多くの人が年をとるとお経に関心を持つようになる。
長い人生で、道理に適わないことをいやと言うほど経験し
その心を癒すためにお経が必要になってくるのだろうか。

東大で機械工学を学んだ兄は、40代で病に侵され、
私の知らない何か宗教的なものに頼るようになった。
恵まれた生涯を送っていた兄の闘病生活を見て思った、
最後まで順風に人生を送ることのできる人は本当に少ないのだと。

だから、格差だとか貧富の差だとか騒ぐこと自体が小さすぎる。
もっともっと大きな矛盾が人生にはあるのだから。
これらの矛盾を含め、般若心経では「是諸法」という。

「舎利子よ、これら(是)もろもろの(諸)の物質的現象(法)は空なのだ」
仏教でいう「是諸法」とはこれら諸々の現象のことで、
生死も含め全てが大したことはないのだと言っている。
この後述べられる「生まれる」「汚れる」なども「是諸法」に含まれる。

不生不滅(ふしょうふめつ)

「生まれることもなく滅することもない」
つまり、「生まれる」という現象について
「生まれることもないのだから滅することもない」という。

生死がないということではなく
「生死に引きずりまわされない生き方」を説いている。
「生きたい、生きたい」ともがかず大往生した祖父。
「もともとなかった命、精一杯有意義に使おう」と
晩年は、あちこちで説法をしていた祖父は
「不生不滅」を完全に会得していたのだろう。

実業家だったが、禅宗の僧籍を持ち、お経に詳しく、
この「不生不滅」を理解しやすくする禅語を教えてくれた。
それが「山中に暦日(れきじつ)なし」。
でも、10歳の私にはよく分からなかった。

「大自然には日付の必要がないように
空の世界には初日や千秋楽はない」
今なら、何となく理解できるのだが・・・
だから、長生きなんてことに大した意味はないと思っている。
大切なのは「どう生きるか」なのだ。

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