私の般若心経 4

照見五蘊皆空
(しょうけんごうんかいくうどう)

「照見」は照らして見るで、文字通りの意味。
もちろん、「五蘊を照らして見る」ということ。
祖父の家の玄関には「照顧脚下」という札が置かれていた。
この札を見ると思い出すのが「照見五蘊」

「靴を揃えて脱げ、札が読めないのか」と祖父によく注意された。
その後、多くの禅寺にこの札が置いてあることに気付いた。
最近では、分かりやすく「脚下照顧」という人が多い。

だから、靴を脱ぐたびに足元を照らして己を顧みる。
家に帰り、脱いだ靴をきちんと揃えながら、
「今日も一日健やかに頑張れました、ありがとう」と
神様(仏さま)にお礼を言う。
「こんな家があることを感謝します」というときもある。
「こうして仕事ができることを感謝します」と事務所に入る。
靴を脱ぐたびに照顧し、ついでに照見を思い出す。

「照見五蘊皆空」とは
「五蘊を照らして見れば、皆空なり」ということ。
この五蘊とは
すぐ後に出てくる「色・受・想・行・識(しきじゅうそうぎょうしき)」
色(しき)とは形あるもの全てを指す
心と肉体なら肉体は「色」そのものである。

後の四つは心の活動。
「受」は心で受け止める、「想」は受け止めた後の想いつまり概念
想いが行動になると「行」つまり意思活動
そして最後にその経験が知識となって身につく「識」

彼女に出会い、心で感じ、想い、行動し、何かを経験して知識が残る。
しかし、どんなに楽しい思い出も、永遠ではない。
これら四蘊は大切な人生の一こまだが、最後には「空」なのだ。
だから、そういうものだと思っていれば、恐れもなく恋に没頭できる。

「照らして見れば、五蘊は皆空(みなくう)なり」
これが「照見五蘊皆空」の世界。
もっと分かりにくく言うと、
「花びらは散っても、花は散らない」
「好きな人と別れても、恋は終わらない」
「人は死んでも、魂は死なない」
「空」は永遠で、充実した世界なのだ。

度一切苦厄
(どいっさいくーやく)

「あー、難しい、全然分からない」って?
当たり前だ、難しいから僧侶たちは修行しているのだ。
修行して、「五蘊は皆空なり」と悟れば、
目出度く、「度一切苦厄」ということになる。

つまり、一切の苦厄から救われる(=度する)という訳。
もちろん、一切の苦しみがなくなるわけではない。
「五蘊皆空」の世界が分かるようになれば
苦しみを苦しみと感じない境地に達するということ。
そうなれば、鏡で老けた自分の顔を見て、
「よくやってきた」と微笑むことができる。

さあ、ここまでの内容をもう一度振り返ってみよう。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」
と二つに区切って訳してみる。

「観音さま(仏さま)は
深遠なる知恵の完成を実習している時に」
「五蘊すなわち色・受・想・行・識が皆空だと見抜き
一切の苦しみから救われた」

カテゴリー: こころ・人生 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です