悲しき社長業(1)

20代のサラリーマン時代、山中湖開発チームの上司が独立し、
後に誰でも知っている東証上場会社の社長になった。
その後私も独立し、何度かお茶をしながら事業について語り合った。

その時に思った、「上場会社の社長になったら長生きはできない」と。
過酷だった、とにかく彼の毎日は過酷だった。
上場して33年、彼は若死にし、その2年後に彼の会社も倒産した。
今でも、彼のマンションを見ると、彼の企業人生に思いを馳せる。

彼のように社員数が千人とまでは言わなくても、
30人以上の社員を使えば、気苦労は一人社長の何百倍だ。
中でも一番は金の心配だろうか。

今はなき長岡塾でも社員の金の遣いこみがあった。
当時、授業料は原則銀行振り込みだったが、
たまに持参での現金支払いを希望する親がいた。
それをポッケに入れてしまった教室長がいたのだ。
罰が当たったのか、彼は50代前半で他界した。

そんな遣いこみも予知しなければならないのが社長業。
当時、私は10校以上の教室視察を抜き打ちでやっていた。
授業視察と称して、生徒名簿と生徒数を細かくチェックした。
だから、被害は少額で済み、当然彼は退社に追い込まれた。

入りのチェックがあれば、当然、出のチェックもやった。
私が年齢の割にPCが好きなのは、その時の経験からなのだ。
教材の在庫管理ソフトを安川情報~という会社に依頼した。
成績管理ソフトや業務管理ソフトも開発した、35年前に。

生徒や教材の出入りと支払い額を連動させ、出のチェックもした。
その時、社長業というのは、つくづく悲しい仕事だと思った。
表の顔で社員を信じ、夢を植えつけ、未来を語りながら、
裏で社員を疑って金の流れをチェックするのだから、
もちろん一部の不届き者のせいで・・・

でも、そのお陰で、塾は売った後も超高収益企業として存続した。
しかし、5年後くらいから未収金などの不良債権が増え、
いつの間にか横須賀から長岡塾の看板が消えていった。

そんな社長の苦労を知っていた社員は1割もいなかったのでは?
そのほとんどが私の生活を羨む輩ばかりだったのが悲しかった。
そんなこともあって、「社長なんて辞めてやろう」と心に決めた。


精進料理:
マンション仲間と材木座にある光明寺の精進料理へ。
和尚さんの琵琶の演奏と法話がついて4千円。
食後、境内のはずれにある内藤家の墓へ。
日本の墓なのかと目を疑いたくなる荘厳さに言葉を失った。

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